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トプカプ宮殿


■イスタンブール | 宝物の宝庫”トプカプ宮殿”

トプカプ宮殿は、15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主が居住した宮殿。イスタンブル旧市街のある半島の先端部分、三方をボスポラス海峡とマルマラ海、金角湾に囲まれた丘に位置する。

宮殿はよく保存修復され、現在は博物館として公開されているが、15世紀に建設されて以来増改築を繰り返しており、現在見られる姿を保ちつづけているわけではない。

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≪ 構造 ≫


トプカプ宮殿は、大きな建物を持たず比較的小さな建物と部屋が連なり、また数多くの庭園と離れ(キョシュク。キオスクの語源)を持つ建造物群である。このことから、トルコ人の中央アジアの遊牧民的な伝統に基づいた宮殿である、と説明されることもある。

宮殿のある丘は、古代ビュザンティオンのアクロポリスのあった場所にあたる。宮殿の外壁はこの丘を大きく囲み、外壁内の総面積は約70万m2ほどの面積である。宮殿の正門は、アヤソフィアの側にある「帝王の門」(バーブ・ヒュマーユーン)である。

「帝王の門」(バーブ・ヒュマーユーン)



「帝王の門」をくぐると、「第一の中庭」と呼ばれる空間があり、オスマン帝国時代も現代も一般の人々が自由に出入りできる。
東ローマ帝国時代の遺構である聖イレーネ(アヤ・イリニ)教会は「第一の庭」の一角である。
「第一の中庭」の他の「帝王の門」内の空間は、君主の庭園や離宮が営まれており、タンジマートの指針を宣言するギュルハネ勅令が発布されたギュルハネ庭園が残されている。

外壁内の宮殿敷地の内側にはある、第二の城壁で囲まれた縦横200m×400mほどの長方形の空間が、君主の私邸であるトプカプ宮殿の本体部分である。
その内部は、行政と公式行事の行われる場である外廷(ビルン)と君主の私生活の場である内廷(エンデルン)、そして女性たちの住む後宮(ハレム)の3つの部分からなる。

外廷の正門「挨拶の門」(バービュッセラーム)



「第一の庭」の奥にある「挨拶の門」(バービュッセーラム)が宮廷の入り口で、かつては許された者しか入ることができず、現在はトプカプ宮殿博物館の入場口となっている。
「挨拶の門」の内側は「第二の庭」と呼ばれる、公式行事に使われた広場で、これを外廷の施設が取り巻く。御前会議の開かれた「ドームの間」や国庫はその一角に位置する。


かつての国庫は、現在は武具展示室となっており、明治時代にイスタンブルに滞在した日本人、山田寅次郎がアブデュルハミト2世に贈った日本製の甲冑が展示されている。


ハーレムへの入り口。
言葉の響きでなんかどきどきするが入っても数多くの美女に囲まれ天にも昇る思いをするなど変な期待や野望も打ち砕かれるほど何も無いですよ。当たり前だけど。






金銀財宝の宝の山々は撮影禁止なので残念ながら写真は無い。
大きなダイヤなど息を呑むような贅沢な品の数々が並ぶ。

一度は観ておいたらいいかもしれない。











内廷の正門「幸福の門」(バービュッサーデ)

「第二の庭」の正面奥には「幸福の門」(バービュッサーデ)とよばれる門があり、その奥にある「謁見の間」(アルズ・オダス)と呼ばれる建造物を中心とする「第三の庭園」とそれを取り巻く施設群が内廷を構成する。内廷には君主の私室(ハス・オダ)や、現在は有名な「トプカプの短剣」が展示されている宝物庫がある。






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≪ 歴史 ≫

メフメト2世が、1460年代頃造営を開始し、1478年頃までに完成した。メフメト2世がここに居を定めてからは、1453年にコンスタンティノープルを征服して以来の宮殿が「旧宮殿」と呼ばれるようになったのに対して「新宮殿」(サライ・ジェディードあるいはイェニ・サライ)と呼ばれ、またイスタンブルに営まれた多くの宮殿のうちの正宮殿として「帝王の宮殿」(サライ・ヒュマーユーン)とも呼ばれた。
現在使われているトプカプ宮殿の名は、19世紀にこの宮殿から皇帝が去った後、トプカプ宮殿の丘がある岬の先端にある「大砲の門」(トルコ語:トプカプ)にちなんで呼ばれるようになった。
宮殿は君主の住居であると同時に、オスマン帝国の行政の中心地として機能した。君主(のちには大宰相)が主催するオスマン帝国の最高意思決定機関である御前会議(ディーワーヌ・ヒュマーユーン)は、宮殿の「ドームの間」(クッベ・アルトゥ)と呼ばれる部屋で開かれ、古い時代にはさらに「ドームの間」の隣には中央政府の書記局と、帝国の公文書や宝物・税金を蓄える国庫が置かれた。

当初は後宮(ハレム)は旧宮殿に残されていたが、スレイマン1世のときトプカプ宮殿に移された。ハレムの人々は、スレイマンの夫人ヒュッレム・スルタンを端緒として16世紀後半頃から政治に介入するようになり、17世紀には君主の母后が政治を自由に動かす「女人の天下」と呼ばれる時代を迎えた。

17世紀中頃に大宰相の執務所と書記官僚の文書行政機構が大宰相公邸である大宰相府(バーブ・アーリー)に移ると、宮殿はオスマン帝国の最高政務機関としての実質を失った。
その後も、トプカプ宮殿は依然として皇宮であり、帝国の儀礼と公式行事の中枢であったが、1853年に宮廷が西洋風のドルマバフチェ宮殿に移ってからは放置され、荒廃した。

トルコ共和国は、1924年にトプカプ宮殿を博物館とし、修復して一般の人々の見学に開放した。
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